闇が世界を支配するのに、そう時間は掛からなかった。

 眷属達の封印を全て解いて、勢いの収まる所を知らない邪王軍は、オーミターション全土を手に入れ、その触手を異世界へ向けた。

 異世界への扉を開けるには聖剣イリヤの力が必要だ。

 しかし、イリヤは聖剣。

 カオス達では手が出せない。

「リィラの様子はどうだ?」

「洗脳は、十分かと」

 シール一族が、滅びの末路を辿ったあの日、族長の娘、リィラだけは殺されなかった。

 生け捕りにされ、洗脳を施し、聖剣を扱う為だけに生かされていた。

「息子の消息はまだわからんか?」

「そちらの方は、未だ……」

「ふん、まぁ良いだろう。さほどの脅威になるとも思えん」

「なれば、開放の儀。執り行いますか?」

「支度を」

「御意」

 かくして、リィラを伴い、邪王軍は蒼玄竜緋洞へと向かった。

 邪剣をカオスが。

 そして今、まさに解かれようとしている聖剣をリィラが。

 異界への扉を包む結界を、二人が切り崩せば、扉は開かれる。

「行くぞ」

 声と共にカオスの太刀が振り下ろされた。

 透明だった結界が、一瞬にして黒く染まり、波打つ様に波紋が広がって行く。

「リィラ!」

 何物も映さない空ろな瞳で、促されるがままにリィラは結界へと近づく。

 そして、リィラの持つ聖剣が結界に触れたその瞬間。

 衝撃が地面を伝わり、立っていた者の大半がバランスを崩し、転倒した。

「なに? 何があったの?」

 出入り口を警備していた下級の魔物へ、アテナが説明を求める叫びを上げた。

 しかし、返って来たのは魔物の声ではなく、若い男の声。

「異界への扉、貴様に開けさせる訳にはいかない!」

 声の方へ首を向ければ、そこには、難を逃れ、成長を果たしたイシュラムの息子の姿。

 だが、成長したとは言えその年端は10も行かない筈だが……

「成長薬を使ったか」

 シール一族に伝わる古薬である成長薬は、飲んだ者の身体だけでなく、その能力や呪力と言った物まで引き上げてくれる、まさに秘薬。

 しかし……

「余程我を倒したいらしいな、小僧」

「当たり前だ」

 成長薬を使っても息子の年は17〜8。邪王カオスと対峙するのには、余りにも頼りなさすぎる。

「一人ではないな」

「……今度こそ、二度と出られないように封印させてもらうぞ、カオス!」

 言葉と共に、戦闘は開始された。


 この地に住まう賢者や聖者。それに腕に覚えのある剣士達、様々な力を持った者達と邪王軍との戦いは壮絶を極めた。

 聖者達は死を厭わぬ覚悟で挑み、対する邪王軍は圧倒的な呪力を持って迎えた。

「母上!」

 熾烈な戦いの中、どうにか母の元へたどり着いた少年は、聖者から渡されていた薬へと手を伸ばした。どんな暗示をも解くと言われる解除薬。それを母の口元へと伸ばした時、少年はある事に気がついた。

(…体が、冷たい……)

 そして、息をしていない事に……

「まさか、母上!」

「死体蘇生。闇の魔術で、だがな」

 少年の声に答えたのは、邪王カオス。

 死体蘇生術には光魔法と黒魔法の二つの種類があり、光魔法では死んだ者の魂を見つけ出し、再び体に戻してやる、いわば本来の『蘇生』だが、黒魔法の場合、本人の魂を戻してやる事には変わりないが、自我を切り取り、ただの人形の様に扱う事が出来る。

 そして、蘇生者には術者の呪力が必要不可欠。つまりこの場合、リィラは掛かっている術を解いたら死体に戻ってしまうと言う事だ。無論、カオスを倒せばリィラにかけた術は解けてしまう。

「貴様っ!」

「異界への扉、開けたくなければ母を殺すのだな。小僧」

 二人が睨みあっている間にも、リィラは扉の結界へと近づいて行く。

 先程、微かに聖剣の切っ先が結界に触れた為、結界に綻びが生じていた。今聖剣を突き立てられれば、扉はきっと開いてしまうだろう。

「……術は、解かれた時に術者に返ると言う……つまりは、母の術を解けば貴様にもダメージが返ると言う事だ……」

「かもしれんな」

「ならば、母上も……」


    きっと許してくれる


 胸の内でそう呟いて、そう、自分に言い聞かせて、少年はリィラの元へと走った。

 リィラの持つ聖剣は、既に結界へと達していた。だが、扉はまだ開ききっていない。

  まだ間に合う。

 走り込んで来た少年の気配に、人形と化したリィラも気がつきはしたが、やはりその反応は遅かった。

 少年がリィラの腕から聖剣を奪い取り、自らの手の中で持ち直し、リィラの胸へ突き立てる方が、余程早かったのである。

「……息子 よ……」

 聖剣を突き立てられた胸から大量の血液が流れ出し、剣の刃が肺も掠めたのか、息をする度にリィラの口から鮮血が吐き出された。

「母上……」

  ごめんなさい

 少年は小さく、母に謝った。

 成長薬で得た今の年齢ではなく、母と過ごした時の、幼子の様に。

 そして、崩れ落ちる寸前に、リィラの口が言葉を象った。

  サルース と。

 それは母から息子へ贈られた、最後の思い。

   少年の名前。

 母から送られる名前は、シール一族の者にとって呪力の源となるほど大切な物。

  サルース ……『救い』

 リィラが息子へ託した願い。


 周りにいた者達は、聖者達も、邪王軍達も、一様に信じがたい光景を目の当たりにして、僅かな時間動けずにいた。


 少年―…サルースが助け出す筈だった母を殺した事に。

 そして、その行為によって、邪王カオスの胸にも、大きな傷が産まれている事に。

「ぐっ…」

 苦しげな声を漏らしてカオスが地に片膝を着けた。

「カオス様!」

 その光景に、我に帰った配下の中でも、アテナが真っ先にカオスに近寄った。

「今、治癒を!」

「無駄だ、聖剣で付けられた傷は、黒魔術では癒せない…」

「しかし!」

「それより、俺の防御力を上げろ。魔法防御もだ。それから、カラの実を…治癒力を高める……」

「直に!」

 アテナとカオスのやり取りが続く間、サルースは自らの胸で息絶えた母を、ゆっくりと床に横たえ、手を胸の上で組ませてやっていた。

 この時、カオスが落ち着いていたのは結界が壊れ、扉がもう少しで半分まで開こうとしていたから。

 逆にサルースが落ち着いていたのは、この状況からでも封印をかけ直せるから。

「聖者様、賢者様。封印をお願いします」

 サルースは自身に対する返事を聞く間もなく、聖剣を握りカオスの元へ走る。 

「させない!」

 目の前に灰金髪(アッシュカラーブロンド)の女性が飛び込んでくる。アテナだ。

 振りかざされた聖剣をレイピアで受け止め、火花を散らせる。その後も二度三度と刃を合わせ、四度目にサルースが力で押し返し、アテナの剣を弾いた。

 獲物を飛ばされたアテナは、素早く魔法攻撃に転じたが、サルースもそれを許さず、間合を詰めて『切り』ではなく『突き』での攻撃を繰り返す。

 立て続けに繰り出される攻撃を、後方に飛んで避けて来たアテナが、ある事に気が付いた。が、それはもう手遅れの状態だった。

 異界への扉が直ぐ背後に来た所で、サルースの放った光魔法が眼前に迫っていたのである。

 咄嗟に張った防御壁で必死に食い止めようとするが、その防御壁にもヒビが入って来た。

「っぁああああ!」

  防御壁が崩され、アテナの身が光魔法の中に晒される。

「カオス様ぁあ!」

 凄まじい痛みと苦痛に絶叫を挙げながら、アテナは衝撃波に飲まれて扉の向こうへと姿を消した。

「次は貴様だ! カオス!」

 先程の傷が完全に治りきっていないカオスに向けて、サルースは光魔法を唱え始めた。

「その術は、まさか!」

 古の封印魔法。

 それはカオスが最初に封じられた時、聖者、賢者、シール一族と、そして異界から召喚された光と闇を併せ持つ『鍵』の二人が使った呪文。

「鍵の存在無くして、その呪文は完成せん
ぞ!」


「完成させてみせる!」

  いつの間に移動したのか、聖者二人と賢者二人、そしてサルースの五人でカオスを取り囲み、それぞれに別の呪文を唱える。

 呪文が進むにつれて、円の中の重力が重くなる。


「ぐっ!」

 重圧に耐えながら、カオスも術を破る為に魔法力を貯める。

 カオスの力とサルース達の力。二つの強い力がぶつかり合い、その余波があたりの壁や地面を削り取って行く。

 両者の力は互角。

 いつまで続くか解らないと思われた力の激突が、不意に片方に揺らいだ。カオスの力が緩んだのだ。

「なっ……に……?!」

 カオス自身も己の変化に驚いた。予期せぬ事態が起こったのだ。

「体が……うごかん……!」

 カオスのその動きを気にしながらも、これを機に、サルース達はいっきに呪文の詠唱速度を早めた。

 と、その時…

「何だと!」

 カオスの体が指先から砂の様にサラサラと崩れ落ち始めたのだ。この事態には、サルース達にも驚きを与えた。封印の際に、こんな状態に陥る事はまず無いからだ。


「一体、何が起こってるんだ…?」

 カオス封印まで後一段階を残すのみの所で、詠唱の声が一旦止んだ。驚きの中で、カオスの異変は止まらなかった。どんどん崩れる部分が増えて行き、既に肩を残して両腕が無くなっている。

   さ…せ…… な……… ぃ……

「…まさか、イシュラムか!」

 細く、小さく聞こえて来た声はまさしくイシュラムの物。

「父上…?」

 その声は、サルースの元へも届いた。声の場所は、カオスの中。

 体を奪われ、精神(こころ)を消されたはずのイシュラムが、精神の奥底から必至に抵抗をしていたのだ。

   サ… …―ス、 切れ…

「父上?!」

   ……体ごと… 早く!

 体を滅ぼした後、今張ってある結界でカオスの精神を殺す。こうしなければ、邪王カオスを完全に消滅させる事は出来ないだろう。しかし、カオスはイシュラムの体を完全に支配出来ていなかった。逆に、イシュラムもカオスを完全に飲み込む事が出来なかった。

 一つの体に二つの魂が混在している今、例え聖剣で切りつけても、どちらか精神力の強い方が残るだけ……


「そうしたら、父上まで…」

 一つの体に入った精神を、二つに別ける事は出来ない。

 カオスの完全消滅か、イシュラムの完全消滅か……

   切れ! サルース!


 叫びと悲鳴が交差する。聖剣で肉体を滅ぼされ、霧の形をした精神が、イシュラムの体から吹き上がる。

 その色は黒。
 
 カオスの精神だ。

 聖者達が咄嗟に呪文を再開させる。

 サルースが、カオスの手から離れた邪剣と、持っていた聖剣を『扉』の前に突き立てる。そのサルースを頂点にして、聖者、賢者を結ぶ五芒星が結ばれた。


  おのれぇ…! シールの小僧が!!


 断末魔の叫びを最後に、カオスの精神は五芒星の中心に封印された。



 サルースに掛けられた 呪いを残して…