の命 V
 ばたばたとリルの部屋から逃げるように出て来たティコは、勢い良く自分の部屋に駆け込んで扉を閉めると寝台の前にへたりと座り込んだ。

「びっ……くりしたぁー…………」

 語尾と溜息が混じる。
 あの瞬間にリルが起きるとは思わなかった。

「他に私なんか口走ってたかなぁ? 大丈夫かな……」

 始めて自分の気持ちに自覚を持った途端にこんな失敗をやらかすなんて、恥ずかしくて耳まで真っ赤になってしまう。

(あ……顔熱い)

 両の手を頬に押し当てるとほんのり熱を帯びている事に気が付いた。うるさく動いている心臓を落ち着かせる為にも何か冷たい物を飲もうと、寝台の脇に歩く。
 寝台の脇には小さな壺が入る程度の穴が掘られ、その上に木で蓋がしてある貯蔵庫がこの宿屋のどの部屋にも備え付けられている。
 熱の強い土地と言っても影に入れば涼しく、地下ともなれば思わず身震いする程だ。その熱差を利用した冷蔵庫の役割をこの穴は果たしていた。

(そうだ、後でリルの部屋の水足しておいてあげなきゃ)

 本当はさっき一緒にする筈だったのだが、そんな事も忘れて出て来てしまったのだ。仕方ない、夜があまり更けないうちにもう一度部屋を訪ねよう。
 そう思ってた時、不意に扉を叩く音が聞こえた。

「は、はいぃ!」

 せっかく落ち着いてきた心臓がまた激しく跳ね上がり、おたおたしながら扉を開ける。

「こんばんは。今平気かな?」
「ナーク!」

 扉の向こうから現れたその人に、ティコの心臓はさらに動きを早める。間が良いのか悪いのか、今考えていた人が突然尋ねて来るなんて……

(わ、私の顔ってば今きっと真っ赤だよ!)

 内心で大混乱しながらもティコは何とか平気だと告げると、ナークに誘われるままに歩き出した。

「ほら、前に旅の話を聞かせて欲しいって言ってただろ? 明日の夜は時間が取れなさそうだから今のうちにと思ってさ」

 半歩先を歩きながら言うナークの言葉で、ティコは彼等が明後日にはもうここに居ない事に気が付いた。

「明日の夕方には、竜蟲の風も収まりそうだからね」
「うん。思いがけず長居になっちゃったけど楽しかったよ」

 にこやかに話すのは他愛もない雑談。
 それからナークとカディの旅の話。
 宿の中を歩いて二人が腰を落ち着けたのは泊り客同士が語り合えるようにと作られた談話室だった。
 建物の壁と同じ素材で作られた長椅子と机だけがある

「それじゃ、ナークは一人で旅をしていた事もあるの?」
「あるよ。一人旅と二人旅、どっちが長いかはもう忘れちゃったけどたぶん同じくらいかなぁ?」
「一人旅って寂しくない?」
「んー、特には。ほら、こうして行き会った街の人達とか流しの商人とかと仲良くなって話するのも楽しいじゃない?」
「じゃぁ、その人達と別れるのは、寂しくない?」

 問いかけて来るティコの瞳が、とても真摯な物で、それにうっすらと涙が浮かんでいるようでナークは一瞬戸惑ってから答えを返す。

「寂しくないって言ったら、嘘になるね」

 予想していた答えと違ったのか、きょとんとした目を向けて来るティコに苦笑を返しながらナークは言葉を続けた。

「人との別れはどんな物でも辛いよ。でもね、別れはどうしても来る。人生ってずっと同じ人達とだけ関わっていれば良い訳じゃないからね」

 旅を続けているナークは、きっとティコよりもずっと多くの出会いと別れを繰り返して来たのだろう。
 この街から出た事がないティコだって、宿屋と言う家業の中で普通に暮らしている者達よりは多くそれを経験している。
 だから、大勢の人と関わって、出会って、別れて、そしてまた出会って。それの繰り返しなのだという事はわかっている。

「だから、どうしても避けられない別れなら、その別れを嘆くより、また会える事を願っていた方が良いと僕は思うんだ。そして、なるべく笑顔で立ち去ろうと思う」

 ふとした時に思い出す懐かしい顔が泣き顔ではないように。

「僕達はずっと旅を続けている。もしかしたらまたこの街に来る事があるかもしれない。その時に見知った顔に会えるのはとても嬉しい事なんだよ」

 そう言って笑うナークの言葉に、ティコは自分達が旅人にそう思われる存在ならば嬉しいと思った。
 だけど……

「やっぱり、置いて行かれるのは寂しいよ」

 悲しげに俯くティコに、ナークはあくまで普通に話しかける。

「ティコは、この街から外に出た事が無いの?」
「無いわ。産まれてからずっとこの街」

 大勢の人と出会って、別れた。
 旅人の中には家族連れもいて、同じ年の子供がいれば仲良くもなった。
 でも、必ず置いて行かれるのは自分で、どんなに離れたくなくても子供の力じゃどうしようもなくて、泣いて諦める事しか出来なかった。

「やっぱり、外に出てみたい?」
「そりゃ、出れるものなら……でも、父さんだけ残して行けないよ。大体、父さんだけだとちゃんと接客できるか心配だしね」

 笑って言うティコに、ナークも笑顔を返した。
 ティコの気持ちは良くわかる。かつての自分も同じ思いに囚われていたから。

「あれ、もうこんな時間だ。ごめんねティコ。結構遅くなっちゃった」

 過去の思いを振り切るようにナークが勢い良く立ち上がってややわざとらしい口調で言う。

「ううん。私こそ付きあわせてごめんね」

 ナークのわざとらしさには何も触れず、ティコも立ち上がる。きっと彼女も重くなってしまった空気を破る言葉を探していたのだろう。
 それじゃ、と各々の部屋に向かって歩き出して少しした所でナークは自分とカディの部屋の前に佇む一人の男の姿を見止めた。

「あれ? どうしたんですか? こんな夜遅くに」

 声をかけると男はナークの存在に気が付いなかったのかびくりと肩を震わせてから振り向き、ナークの姿を確認すると深く頭を垂れた。

「お二人に、お願いしたい事があって参りました……」

 お辞儀をしたままそう言う男を、一先ず部屋の中へと誘って、ナークはその『お願い』を話だけでも聞く事にした。