の命 U

「カディ、どうする?」

 本心から困っている様に眉を寄せて、ナークは同じ様に困った顔をしているカディを振り向いた。
 深夜にあった来訪から、二人は思わぬ『お願い』をされて、それを受けるかどうするかで困っているのだ。
 二人はもうすっかり旅支度を終えていて、行こうと思えば今すぐにでも旅立てる。
 しかし旅立ちを躊躇させているのは昨日の『お願い』のせいだ。
 昨夜二人の元を訪れた男は、この宿の主人。そう、ティコの父親だった。

「お二人に、お願いしたい事があって参りました」

 通された客室の中で、宿の主人は勧められる椅子も断って二人に深く頭を垂れた。

「お願いします。ティコを、外に連れて行ってやってください」

 お辞儀をしたままの姿勢で頭を上げようとしない主人と、その言葉の内容にナークとカディは驚いて顔を見合わせた。

「ち、ちょっと待って下さい。いきなりそう言われても……」
「ご迷惑になるのは承知です。しかし、貴方方にならお任せしても安心できると勝手ながら判断させて頂きました。どうか、ティコに外の世界を見せてやって下さい!」

 慌てて事情を聞こうとしたナークの言葉を遮るように主人は口早に喋りだす。しかも、まだお辞儀をしたままだ。
 お願いします、とさらに言い重ねられて二人はまた顔を見合わせる。どうしようか? と言う眼差しを向けるナークに、カディは胸の前で重ねた手を上下させ、口を指差してから宙に円を書く。

「そうだね、お願い」

 そのナークの返事にこくりと頷くとカディは寝台の横にと移動した。備え付けの貯蔵庫から水を取り出して杯に注ぐ。それを主人の元に運んで差し出した。

「それを飲んで、一息ついてから順番に話をして下さい。そうじゃないと僕達には訳がわからないままですから」

 微笑むカディとナークに、お辞儀はやめても俯いたままで主人はありがとうと呟いて杯を受け取った。
 ゆっくりと水を飲むその間にナークが椅子をもう一度薦め座らせる。殆ど空に近くなった杯を膝の辺りで両手で持ちながら主人はゆっくりと話し始めた。

「あの子は、産まれてから今日まで一度も街の外に出た事が無いんです。あの子が十の時、母親が病で死んでしまって、それからと言う物今まで以上にこの宿の事を一生懸命手伝ってくれました。俺もね、その時は忙しさで悲しさを忘れるのも良いと思ったんです。だけど……」

 本当に些細な瞬間で、なんでそう思ったかは忘れてしまったけれど、主人はティコが母の死後一度として泣いた事が無いのに気が付いた。
 そして、一度も外に行ってみたいと言わなかった事にも。

「いつか外の世界を旅して、同じ旅人のいい人を見つけるんだって、ガキの頃は良く母親に話してたんですよ。でも、そんな事はもう二度と言わなくなっちまった……」
「失礼ですが、奥様は砂病で?」
「ええ、そうです。俺と二人、若い頃には旅暮らしをしていた物ですから」

 砂病とは旅を続ける者ならば誰もが恐れる砂の病気。
 この世界特有の砂塵にも等しい細かな砂が、空気に混ざって人体に進入し、呼吸器官に影響を及ぼすこの病は、街に留まっている者よりも旅を続けている者の方が強い風に晒される事が多い為にかかりやすい。

「旅に出たいと、ティコ本人が言っているんですか?」
「いえ、そんな事は一言も。しかし、あの子はそう思っていたとしても俺には言わんでしょう」

 なるほど。とナークは思った。
 この主人もティコもお互いの気持ちをとても良くわかっているのだ。
 ティコが旅に出たいと言わないのは、旅で命を落としたも同然の母を思い出させてしまうし、自分も同じ道を辿るかもしれない心配を父にさせてしまうから。
 主人がこんな願いを自分達にしてきたのは、そんなティコの気持ちも全て理解した上でそれでも心配が先に立って、ティコの方から話を切り出してくれなくては素直に背を押してやれないのだろう。

「お願いします。明日旅立つ時にあの子を連れて行ってやって下さい」

 三度目の深いお辞儀をされて、二人は本気で困った。一先ずこの場は『声はかけるが行くかどうかはティコ次第ですから』と誤魔化しておいたのだが……

「いざ出発の時になると、困るね……」

 ぼやくナークに隣でカディがこくりと頷く。
 昨夜の感触からして、ティコは誘えば来るだろう。それは親子の希望を叶える事になるので良い事なのだが、ナークとカディの旅は安全が保障できる物ではない。

「それに、旅を一緒にするなら素性も話さないといけない事態になるだろうしねぇ」

 はぁ、と溜息交じりの声にまたも頷いたカディが、何かに気づいて顔を上げると同時に宿の外から何か声が聞こえて来た。

「悲鳴?!」

 言うが早いかナークとカディは外に駆け出した。

「抵抗する者には容赦するな!」
「どんな小さな家でも見逃すな! 虱潰しに探せ!」

 大人の背丈と同じ大きさを持ち、引き締まった体躯をした四本足の動物、バスクにまたがり半月刀を振り回した男達が街の大通りを突入してくる。

「太陽の紋章……砂赤の軍勢だ」

 建物の影に潜んで侵入者を観察していたナークの言葉でその正体を知る。
 最初は蟲の侵入かと思ったが、他国の軍勢ならば抵抗しない限り殺しはしないだろう。しかし、彼等が何かを探している風なのが気になる。

「何を探してるんだ?」

 逃げ惑う人々を気に留めもせずバスクを駆る男達は、露天をなぎ払い、許可も無く家の中へと踏み入る。
 踏み入った家の中の事は見なくとも容易に想像がつく。家具を倒され、部屋を荒らされ、下手をすれば家人は暴力の元に晒される。

「見つからんか?」
「は、今はまだ」
「早く探し出せ! 白金の髪だ!」
「はい!」

 混乱する街の中で、悠然とバスクに騎乗するその男は、他の軍人と比べ金糸の多く使われた凝った細工の服を身にまとっている事から砂赤の貴族、ないし隊長格である事がわかる。

「カディ」

 振り返る前に背後に居たカディの気配が離れていくのがわかった。
 男達の会話から、彼等の探している物がリルの事だと悟り、カディはリルの元に向かった。

「ごめんね……」

 混乱している街人達に小さく謝ると、ナークもその場を離れ、宿に戻る。リルも心配だったがティコ達の事が気にかかった。
 助けられなくてごめん。どうか抵抗なんてしないで。
 そう心の中で祈りながらナークは音も無く走った。