の命 U

 己の素性を話したその日の夜。リルは久しぶりに幸せだった頃の夢を見た。
 父がいて母がいて、大好きな女官がいて、皆で笑いあっている夢。
 現実世界では、もうあり得ない楽しい夢からふと醒めたリルは、傍にあった温もりに無意識にしがみつき、再び眠りに戻ろうとした。
 しかし、はたと気が付いた。天幕の中で薄布をかけて眠るだけの旅生活で、この温もりは何だろう? 天幕の中にしてはやけに明るい気もする。
 疑問を頭に浮かべ、急速に理解する。

「カディ!!」

 がばっと跳ね起きた。
 おはよう、と言わんばかりに微笑まれて一気に顔が赤くなる。
 昨夜、カディに抱きしめられた温もりに気の緩んだリルは暫く泣き続けた後、泣き疲れたのかそのまま眠ってしまったのだ。
 眠ってしまったリルに、最初は慌てたカディだったが安堵した様子で眠っているのを起こすのは忍びなかった。
 かと言ってこのまま寝かせては夜風で風邪をひくのは確実だった。
 きょろきょろと周りを見渡すと、ぎりぎり手の届く範囲にあった自分とナークの布団代わりの薄布が丸まっていた。そっと手を伸ばして近寄せた薄布を二枚ともリルにかけてやり、自分はそこから伝わる体温で一晩を過ごしたのだと言う。

「お、起こしてくれれば良かったのに」

 まだ火照る顔をぷいと背けながら言うリルの頭を、ぽんぽんと軽く叩いてカディは笑う。

「リル、カディ。おっはよー早いね」
「お、おはようナーク」
「んー? どうかしたのリル。顔赤いよ?」

 朝一番から鋭い突込みを入れてくるナークの言葉にリルは心臓が踊りだす気がしたが、なんでもない、と言って天幕にそそくさと逃げ込んだ。

「何したの? カディ」

 にたり、と意地の悪い笑みを浮かべるナークにカディは慌てて首を横に振る。
 確かに、カディにしてみれば何にもしていない事にはなる。された方は恥ずかしい上に照れくさくて仕方がない事なのだが。

「おはよー。ねぇ、リルに凄い勢いで起こされたんだけど、なんかあったの?」

 まだ眠いのか目を擦りながら天幕から出て来たティコに、リルの行き場のない感情は八つ当たり気味にぶつけられたようだ。

「じゃま、行きますか」

 天幕を畳んで旅支度が終わった一同は、昨夜の話し合い通り『緑の砂』に向かって歩き出した。

「途中に確か小さな町があるんだ。そこで水の補給がしたいね」

 てくてくと歩きながら、適当な雑談が交わされる。中でも一番話しているのはナークだが、その知識の広さに驚かされる。

「地図も見てないのに良くわかるよね」

 ティコの感心したような言葉に、ナークは笑って答える。

「蟲司の大半は蟲を使って人々の手助けをする為に各国に散っているんだ。その散らばった面々が緻密に記録した旅手帳を片っ端から読ませて貰ってたからね。行った事のない土地の事も詳しくなったんだよ」

 ナークは自分の素性を隠そうとしない。
 砂青の出身で蟲司。今の様な一族の事も聞けば答えてくれたし、聞かなくても話してくれる。
 それでもナークが絶対に話さない事がある。何故、蟲司の一族が数少ない存在となってしまったのか。それだけは触れようともしないし、リルとティコも聞き辛かった。
 二人旅をしていたカディには話しているみたいだが、ナークが話さない物をカディに聞けるわけがない。

(ナークも、リルみたいに辛い思いをしてるのかな……)

 リルの話を聞いてから、ティコはナークとカディの生い立ちが気になってしまった。
 二人は生い立ちも年齢すら不詳で、どれくら長い旅をどうして続けているのか、それすらも知らなかった。

(なんか目的があるような事言ってたけど、全然そんな様子ないし)

 大体にして、その目的と言うのもナークの話なのか、カディの話なのか、それとも双方に関わりがあるか。それもわからないのだ。

「ナーク、あそこに人がいるわ。ほら、一本だけ木がある所」

 いままで無言だったリルが前を指差す。
 見渡す限り一面の砂で、見晴らしが良すぎるこの道で、前方やや斜めの場所に本当に小さな木陰があった。
 砂と光に負けずに育った木がまれに影を作り、旅人の休憩所として重宝されていた。いまリルが見つけたのもその一つだ。

「影もあって丁度良いし、あそこで少し休んでいかない?」
「そうだね。お邪魔させてもらおうか」

 リルとナークの言葉にカディも頷いて、一同は木の方向に向かって歩き出した。
 砂黄から旅立つ時、赤の軍を警戒してこっそりと出立をしてきたので最初にナーク達が連れていたラナクはティコの宿に置いて来ていた。その為旅の荷物は皆で分担して持っているのだが、旅慣れしていないティコの持ち分はナークが少しだけ負担して持ってやっているので一番疲れているのはナークだろう。
 かと言ってナークが疲れを訴えればティコが気にするし、ティコに荷物を持たせれば、休憩の時間は今よりも増すだろう。
 旅を始めてからずっと、リルかカディが適当なところで休憩を促し、荷物の持ち分を変更したりしていた。

「すいません、少しお邪魔させて貰って良いですか?」
「あぁ、どうぞ」
「ありがとうございます」

 先に木陰で休んでいた男に声をかけてから、一同は荷物をそこに置き体を伸ばす。

「もう少しで町だから、水は少し飲んで平気だよ」

 荷物の中から水袋を出して差し出してくるナークに、お礼を言いながら水袋を受け取りティコは大切そうにそれを一口だけ飲んだ。
 口を覆うように布を巻いているので、さほど砂は吸っていないと思っていたのだが、水分を入れると口の中が乾き切っていた事に気が付く。

「はい、ナークも飲むでしょ?」
「僕は口を濡らすくらいで平気だから、ティコもう少し飲んでいいよ?」
「ほんとに? ありがとう!」

 素直にナークの言葉を受け取って水を口に含む。ぱっと表情が変わるティコを眺めているのは面白い。知らずと微笑んでティコの様子を見ていたナークに、先客の男が笑いながら小さく声をかける。

「可愛い子じゃないか。大事にしてやんなよ? 色男」

 にやりと笑って言う男に、ナークは珍しく慌てた。

「ち、違いますよ。僕等は旅の者とそのお供ってだけで……!」
「隠すな隠すな。そうだとしても好きなんだろ? あの子の事」
「いや、だから……」

 しどろもどろになっているナークの様子に気が付いた他の面々が訝しんだ視線を投げた時、風に乗ってどこからか小さな子供の悲鳴の様な、甲高い音が聞こえて来た。

「なに?」

 リルがぱっとその音がした方に視線を向ける。気配や音に関しては、四人の中で一番リルが敏感なようだ。

「あぁ、飛蟲だ」
「飛蟲?」

 緩やかに吹いている風の風上を見ながらのんびりとした口調で言うナークに、ティコが聞き返す。初めて聞く名前の蟲だった。

「凄く小さな奴でね。木の枝に登って飛び降りては風に乗って目的地に移動するって言うのんびりした蟲」

 言っているうちに緩やかな風に乗って黒い点に見える本当に小さな蟲がふぃよふぃよと一同の元に近付いてきた。
 手を伸ばしてそれを捕まえると、ナークは捕まえたのと同じ掌に水を一滴落として蟲に与えた。

「ご苦労さん。どうだった?」

 そのナークの問いにきーきーと甲高い鳴き声でなにやらを訴えている。

「そうか、良かった。さ、もう戻って良いよ。お休み」

 言いながら腰の革紐に下がった小瓶の一つを開封して飛蟲に向ける。と、きーと小さく鳴いてから蟲は瓶の中に入って行った。
 一連の行動が終わった時、カディがナークに向かって体に水平に大きな円を描き、その上で手をひらひらと動かしてから首をかしげる。

「大丈夫だったよ。心配ないみたい」

 ナークの答えにほっとした表情で笑う。

「二人で納得してないで何なのか教えてよ」

 説明がないまま話題が終わってしまいそうだったので、横からリルが説明を求める。今の身振りだけではカディが何を言っていたのかわからなかったようだ。

「あぁ、ごめん。飛蟲に砂黄の様子を見に行って貰ってたんだ」
「え?!」

 砂黄と言う言葉でティコが身を乗り出した。口にはしなかったが、はやり様子は気になっていたのだろう。

「あの後直ぐに兵は引いたみたい。街の人は皆抵抗を見せなかったから無事だって。軽症の怪我人くらいは出たみたいだけどね」
「父さんは?」
「元気に宿屋復活してるってさ」
「……良かった」

 心底ほっとした表情でその言葉を聞くティコの頭を撫でながら、良かったねと言うナークも、妙に嬉しそうだ。

「なんだかわからんが、良かったな嬢ちゃん」

 不意に声をかけられて、男の存在を思い出した。ありがとう、と簡単に返して会話を終わらせようとする。色々と聞かれて襲撃の理由まで突っ込んでこられたら面倒だ。

「しかし驚いた。蟲司がまだいたんだな。全滅したって聞いてたんだが、兄ちゃん生き残りかい?」

 他意のなさそうな、何気ない言葉だったがそれはナークに警戒心を抱かせるのに十分だった。

「全滅だなんて、どこで聞いたんです?」

 にっこりと一見には見破れない作り笑いを顔に貼り付けて、ナークは男に向き直る。
 男は案の定ナークの作り笑いには気が付かず、ただの世間話程度にべらべらと蟲司の噂を話し出した。

「旅をしている奴等の中じゃ結構な噂になってるぞ? 蟲の知識が聞けなくなると不便だって。なんでも蟲司の本性が暴走したらしいじゃないか」

 あんたは平気なのかい? と心配そうに聞いて来る男に、ナークは答えず笑みだけを向ける。

「さ、そろそろ出立しようか?」
「え? あ、うん」

 くるりと振り返ると同時に言われた言葉に反応が遅れて、慌てるリルとティコの荷物を手際良くカディが拾い上げる。

「じゃぁ、失礼しました。良い旅を」

 男を振り返って言うナークの目は、笑っていなかった。むしろ冷たい光を宿していて、笑いながら男を睨んでいるようにも見えた。
 そんなナークの表情に、男は幸か不幸か気が付かずに手を振っていた。